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テーブルエッセイ

揺り籠から墓場までのライフログ

以下に、少し想像力を逞しくして、1つのSF(Speculative Fiction)のための素描をしてみたい。ちなみに同じSFでも、スペキュレイティヴ・フィクションとサイエンス・フィクションとの間には、ウルサ型の人ならば気にせずにはおれない程の溝 —定義や用法や歴史の違い— が存在している。ご興味ある方は検索してみていただくと、ディープな沼が待っているはずだ。

人間は、記憶の生き物である。地球上の生物の中で、人間だけが突出して「心のなかの時間旅行(※)」を行う能力を持つと考えられている。記憶はその人のアイデンティティをかたちづくる。それゆえに、人は記録をしたがる。記憶の生き物は、記録の生き物でもある。

※心のなかの時間旅行:過去や未来という時制を認識して思い浮かべることができるのみならず、現実とは異なる過去を描き出したり(反実仮想)、未来に広がる様々な可能性を幾パターンも想像したりする能力を総称した概念。『現実を生きるサル 空想を語るヒト The Gap: the science of what separates us from other animals』トーマス・ズデンドルフ, 白揚社, 2015年(原著2013年)を参照。

人間は、1839年のジルー・ダゲレオタイプを嚆矢として、何らかの光学的手段によって現実を写真や動画に変えて記録・保存するための、様々な機器を生み出してきた。それはいま、私たちのスマホの中に、他の様々な機能とともに小さく収まっている。わずか180年弱のこの間、記録のコストを下げ続けてきた原動力は、いつの時代にも存在した、記憶に対する人々の飽くなき欲望であったことに留意したい。

アナログカメラの時代を生きてきた人ならば、旅行先でフィルムの残り枚数を気にしながら撮影し、うまく撮れたかどうかを気にかけながら、帰宅後に現像所に出かけてフィルムを預け、上がってきた写真をみれば手ブレやピンボケばかり…といった記憶の1つや2つは持っているのではないだろうか。それがいまや、気にすべきは「ここいらで写真(あるいは動画)でも撮っておこうか」というタイミングだけである(…とはいえ、これがけっこう面倒くさいのだが)。枚数への配慮は要らない。失敗はその場で撮り直せばいい。これだけ記録のコストが下がったというのに、それを行うわずらわしさは、さほど軽減されてはいない。

ただし、記録できる内容やそのためのツールは、多様化し増え続けている。ライフログやそれを記憶するウェアラブル・デバイスなどは、その最たるものだろう。これらの場合「いつ記録するか」を気にする必要はない。ただ身につけ、必要に応じて確認し、そして充電を忘れなければよい(…とはいえ、これがけっこう面倒くさいのだが)。

19世紀以来のこのような「記録」の技術史・精神史は、IoTやAIの進化とも関わり合いながら、どのような未来を描き出していくのだろうか?

記録を進歩させてきたのは、常に記憶への欲望であったことを思い起こそう。すると、次のような世界が思い描けるのではないだろうか。何かを中断して、記録という行為にわざわざ意識や時間を割く必要のない世界。そこに生きる「私」の人生を、いつでも、どこでも、あらゆる角度から、ON/OFFなしに、自動的に記録し続けてくれるツールとメディア。揺り籠から墓場まで、その人の一生のアーカイブを自動的に生成・蓄積していくシステム。

そのような世界において、人は「記憶」と「記録」と「アイデンティティ」の三者が限りなく同心円上に重なり合う、現在の私たちにとっては未知の人生体験を歩むことになるだろう。

思考実験を続けよう。夫婦は、生まれた子供の成長過程をまめまめしく記録する必要はない。24時間とどまることのないシステムが、画像を、動画を、ライフログを、同じ年頃の子供たちの平均データとの差分を、健康や成長に関するサジェスチョンを、そしてこれまでの記録の望みの地点に容易にアクセスしては自在に編集できるインターフェイスを、いつでも提供してくれる。

その子にとって、すべての体験は 記憶 < 記録 となり(なにしろ記録は記憶より以前に始まっているのだ)、それを(おそらくはサジェスチョンに従って)有効に活用するならば、二度三度と同じ失敗の轍を踏むようなことは、人生から消えてなくなってしまうかもしれない。現在の自己啓発本やセミナーを部分的に代替するものとして、過去の自分の記録や、パブリック・ドメイン化された他者や著名人の人生の記録が活用されるようになるかもしれない。

自己紹介のかたちも、深い付き合いに至るまでの早さも、少なからぬ変化を被るはずだ。恋愛や結婚の“精度”はいわずもがなである。死を取り巻く認識も変わるだろう。亡くした人の記録は、文字通り半永久的に残っていく。覚えておきたいと願う、その当人の人生よりも永く。幾度も念を押される確認画面を承認して、最終的に完全にデリートしてしまわない限り。

さて、そのような世界は、端的に言って、現在より住み良いだろうか? それは例えば、すべての人たちが疎外や抑圧を感じることなく、各自の持ち合わせている資質を十二分に発揮することのできる社会を、実現する方向に働くだろうか。あるいはその逆だろうか? 幾つかの技術的問題と、想定しうる倫理的問題を検討しクリアした(と見なされた)後に、このような世界の実現に向かうのは果たして民間企業だろうか。組織だろうか。国家か。あるいはそれらの連携だろうか?

もちろんこのような世界は、直ちにその負の側面を想像させずにはおかない。それは「プライバシーなき個人」や「全面的な監視社会」とあまりに親和性が高く、実際、技術的にはコインの両面だからである。また、ライフログの技術が高度に先鋭化するならば、取得される情報内容が優生学的思想と結びつかないとも断言できないだろう。

しかしそんな世界をディストピアと断じるのは、早計に過ぎるかもしれない(あるいは遅すぎるかもしれない)。多少の便利さのために、幾許かのプライバシーを当然のように要求されること。それを「そんなものだ」と納得してタップ一つで犠牲に供することは、すでに私たちの日常ではないだろうか?

技術は技術であり、それ自体は倫理的判断を行わない。欲望あるところにそれは生まれ、発展し、私たちが望むものをコスト見合いで実現していくだけのことだ。

だから最後の問いは、次のようなものになるだろう。私や私の親しい人たちを、そしてこれから出会うだろう大切な人々との時間を、社会を、歴史を、すなわち全世界を丸ごと記録したいという、止むに止まれぬ(そして時代相応に拡張された)欲望。そのトレードオフとして要求される、(ベンサムが考案しフーコーが引用したところのパノプティコンを、より不可視のものとし、あらゆる人生の前提にあらかじめ埋め込んだかのような、)個人が全面的監視下に置かれ、管理されうる社会。欲望と技術と犠牲とがこのようなトライアングルを描き出す現実を、私たちは進んで受け入れようとするのだろうか? それとも拒否するのだろうか?

株式会社テーブル

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テーブルエッセイ執筆者

片桐暁

株式会社テーブル
ディレクター/ 取締役

片桐暁

コピーライター/クリエイティブ・ディレクター。日用品からプレミアムブランドまで、個店や中小企業から外資系、グローバルメジャーまで、ジャンルや規模を問わず、各種クリエイティブおよびブランディング、コミュニケーション施策の設計・実施に携わる。文部科学省『一家に1枚 宇宙図』制作に参加。『太陽系図』『光図』『シミュレーション図』制作委員会。著書に、最新宇宙論を恋愛小説の体裁で解説した『宇宙に恋する10のレッスン 最新宇宙論物語』(共著、東京書籍)。